コミュニケーションの宛先

最終更新日:2020.06.26

福井支店の界です。

福井支店 界

とある本の一節です。

”コミュニケーションの起源的な形態は、まだ人語を解さない赤ちゃんが、親から語りかけられる経験です。
この語りかけを通じて、赤ちゃんは表情筋の使い方を学び、身体運用を学び、感情を学び、観念を学びます。

~中略~

でも、このとき赤ちゃんは、親の語る言葉のコンテンツはまったく理解していません。
コンテンツが理解できなくてもコミュニケーションは成立します。
母語をまだ一語も理解できない赤ちゃんでも、ひとつだけはっきり理解できることがあるからです。

それは「このメッセージの宛先は私だ」ということです。

~中略~

コミュニケーションの基本は「相手の話がわからない」なんです。それをデフォルトにしてコミュニケーションを設計する。それがことの筋なんです。”

 

ずいぶんと偏った見解にも聞こえますが、私はこの見解が好きです。

例えば難しい話をする上司の意見を『フムフム』と聞くアレ、親戚のオジサンの武勇伝を『フムフム』と聞くアレなんかもそうです。
アレは、当時は一つも頭に入ってこないときもありますし、宛先が違うのでは?と勘ぐりたくなるときもあります。

ここで大切なのは『もしかしたら私が受け取れないだけで、すごく大切なことを伝えようとしてくれているのかもしれない』という受け手、聞き手のマインドセットです。

インターネットのおかげで「分からない」ことが絶滅危惧種になり、SNSのおかげでコミュニケーションに「耐える」という機会も薄くなりました。それに加え、コロナの影響でマスク越しの、もしくは画面越しのコミュニケーションを強いられる始末です。

そんなコミュニケーションの表面側の問題とは裏腹に、上記の本の一節からはもう一つの事実も読み取れます。

それは理解できなくてもコミュニケーションが成立するための『関係性』です。


全てが繋がり、場所を問わず、様々なスタイルで働きながら暮らす時代。そんな多様性に生きる我々にとって、メッセージを『受け取れる』という、心理的な安全性がとても大切です。(親子の関係性がその究極でしょう)
その関係性では、「ルール」の強度が重要なのではなく、「原理」や「原則」を共通言語とした「マインドセット」が大切な要素となるでしょう。

自己開示ができる心理的安全性の高い組織であること、これが「受け取る」ためのマインドセットを育む大切な土壌なのかもしれません。

そんな関係性に気づかせてもらった(もしくは受け取った)本の一節でした。