視ること

最終更新日:2023.02.20

お久しぶりです。
金沢支店管理課の北川です。


昨日から雨水になりましたね。
2週間後にはもう啓蟄です。
暦の上ではもう春の盛りですので、現実でも早く桜が咲きやしないかと思いながら、
まだ固い梅のつぼみを眺める日々です。


昨年の話になりますが、ゲルハルト・リヒター展に足を運んできました。
(展覧会概要:https://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/gr_2022-23/

名前をよく聞くお方の作品展があると知り、物見遊山の一環として美術館に
立ち寄ったのですが、これが見てもちっとも分からない!
大きなカンバスに色とりどりの絵の具が自由にぶちまけられていたり、
綺麗に縞やモザイクに並べられていたり……
抽象画の見方を知らない身には大変難しかったです。

でもその脈絡なく見える色彩をじっと眺めていると、
もしかしたらこの揺らぎは水面の反射であるとか、
ここの直線や濃淡は柱や開口のガラスではないか?と思えてきて、
雨にけぶる通りや濡れてさえざえとした緑陰が浮かび上がってくるのです。

とても不思議な心地でした。

特に解説はなかったのでわたしの見たものが正解であるのかは分かりませんが、
人間の目というものは目の前にあるものをどうにか理解しようとして
些細な色の変化さえ拾おうと目まぐるしく働くのだと、
そして取得した情報を頭の中で必死に知っているものと照合するのだと、
”見る”という日頃まったく気に留めずに行っている動作の意味を
自覚する鑑賞体験でした。

記憶が朧げなので間違っていたら申し訳ないのですが、
むかし読んだ本の中に、
もし盲目の人間が突然視覚を得ることがあったら、
目の前にあるモノの境目を認識できるだろうか?
というような問いがあったように思います。
壁紙や額縁の存在を個別に知らなければ繋ぎ目が分からず
一塊の模様にしか見えないのではないか、
つまり認識とは単に視覚があれば成り立つのではなく、
物事を知っているという経験にも依るのではないか?というお話です。

今回はわたしの経験不足により完膚なきまでに敗北しましたが、
いつの日か、熱量を持って描かれた作品を
わたしなりに受け止められるようになるため、
これからも機会を見つけていろいろな展覧会に足を延ばし、
鑑賞経験を積んでいこう思います。



豊田市美術館は建物自体も楽しかったです。