わたしは年齢である

最終更新日:2020.12.25



『子どものときに、60歳っていったら、ずいぶん年寄りだなと思っていましたよ。でも自分がそうなってみたら、何だ、まだまだやれるじゃないか(笑)』
1998年に聞いたある人の言葉。
60歳とか、還暦とか、自分にはえらく遠い話であり、アルスホームにおいては定年の社員を迎えることなど想像もつかない、そんな頃のことだった。

そして20年。2018年に定年に達する社員がうまれ、同時に雇用延長制度を整え、定年退職や雇用延長を選択する社員との面談制度も整えた。
時代の要請に応えた福利厚生の充実という側面に加えて、一定の勤続年数を経た社員が定年を迎える企業へ成長したということに、感慨を覚えたものだ。

人事責任者として、毎年、面談の場に同席するのだが、次の次の、そのつぎぐらいに順番がまわってくることに気がついた。
「そっか、オレもそっちの仲間入りだ」
白くなったり、薄くなったり、見えづらくなったり、疲れやアルコールがなかなか抜けなかったり、加えて、年相応の容姿となっていることも否めない。
しかし、何か不思議な感じがしたのだ。


『年齢とは、これに進んで応和しようとしなければ、納得のいかぬ実在である』


小林秀雄は「還暦」という文章の一節で喝破(かっぱ)してみせた。
受験問題集で目にしたときは「なんのこっちゃ。これは日本語!?」というのが限界。
ところが、今、この年になって、その言わんとするところがわかるようになったのだ。

人はたいてい、自分の年齢は自分にふさわしくないと感じているはずである。
自分がその年齢にあると思いたくない、若さこそが価値であり老いることは敗北だととらえられがちな現代なら、なおさらのこと。
「60歳、これが私の年? 気持ちはちっとも変っていないのに」という具合である。
おそらくは、時間がたっても意識は何ひとつ変わらないのに、時間とともに身体は変わるということを認められないということなのである。

しかしながら、そうはいっても現実は目の前にやってくる。
では、どんな構えで、寄る年波を迎えればよいのだろう。

自分はこの年齢にふさわしい、この老いていく肉体そのものであると受け入れてみるということだと思った。進んで応和してみようと思ったのだ。
言いかえれば、老いるという初めての経験を、それにふさわしく感じるということである。
しかしこれは、そんなにさみしい話ではない。

初めて、青春という言葉を意識したときのことを思い出してみたい。
目の前には未知の世界が広がっている。そしてそこには、何かが始まる&成長できるという予感と期待があったはずだ。だから、さまざまな喜怒哀楽を糧にして前へ進むことができたのである。



そうふりかえれば、年をとるということも、実は、初めての経験であるということに気づくことができる。
同じようにワクワクする何かに出会えるのではなかろうか。
何かが始まる&成長できるという予感と期待がうまれてくるのではなかろうか。
だからこれは、枯れるとか年寄りじみるということとは違う。
年を重ねるとともに未知なる世界に出会えるということなのである。

ダマされたと思って、一度、年齢へ応和することにチャレンジしてみてはどうだろう。
自分はこの年齢にふさわしい、この老いていく肉体そのものであると受け入れてみることから始めてみよう、と思ったのだ。
さらに俯瞰(ふかん)すれば、年老いることにワクワクすることができるということは、自分の若さはなお続くということの裏返しともいえるのである。
                                    経営管理部 見角勝弘